みちしるべ 6


 月曜日に母から電話があって、近いうちに実家に寄らなくちゃいけないこと。それをしどろもどろになりながら維月さんに話した。
 維月さんはわたしと両親との軋轢……それほど深刻ではないにしろ、わだかまりがあるのは知ってる。今までに何度か話したことがあったから。いつまでも子どもっぽく拗ねていじけてるわたしに対し、維月さんは説教じみたことを言ったり窘めたりはしなかった。いつも静かにわたしの話を聞いてくれ、時にはアドバイスもくれたけど、大抵は悪い意味ではなくさらりと受け流してくれていた。
 だから今、また改めてそんな話を聞いても、維月さんは相槌を打つだけで具体的な意見は口にしなかった。
 ただ少しだけ何かを考え込んでいる風には見えた。前髪をかきあげて天井をあおぎ、フッと短く息を吐いた。そしてわたしの方に顔を向け直し、「座る?」と尋ねてきた。
 維月さんに促され、わたしは上半身を起こした。枕を腰に当て、ベッドのヘッドボードに背中を預けて座る。維月さんはわたしの隣に同じようにリラックスした姿勢で座り、腕をわたしの腰に回した。維月さんに寄りかかってると安心する。それでも何となく気まずくて維月さんの顔を見られない。
 わたしが数日落ち込んでいた原因は、たしかに実家に寄らなくちゃいけないって事からきてた。それは嘘じゃない。でもすべてでもない。
 維月さんはきっとそれに気づいてる。なのに、「それだけか」と訊いてこない。
 わたしは横目でちらりと維月さんの顔を覗き見、それからためらいを払って語を続けた。
「……家に帰らなくちゃって、それで気分が沈んでたのはたしかにそうで、……でもほんとはそれだけじゃなくて」
「うん?」
 言い淀み、また目線を下に落とした。
「いろいろと、その……」
 二の句が継げない。声も小さくなる。肩をすぼませ、落ち着かなげに膝の上で両手を組んだりほどいたりしていた。
 維月さんは先を急かさない。黙って、わたしが話しだすのを待ってくれている。
 ――やっぱりまだ話せない。今日、頭の中でぐるぐる回ってた二文字の言葉は。
 ちらちらと目線を維月さんに向けながら、わたしはなんとか言葉を絞り出す。何か言わなくちゃと焦って、瞬きだけが多くなる。
「……維月さんのことあれこれ、考えてたんです。いろいろ……維月さんのこと、維月さんのお家のこととか、今日お会いした十川さんのこととかも……」
 結果、ひどく曖昧な物言いになってしまった。
 曖昧どころか、かえって思わせぶりなことを言ってしまったような気もする。
 ちらりと目線を上げて維月さんを見ると、維月さんは少し驚いたような、戸惑ったような顔をして目を瞬かせた。「俺のことを?」とわたしを見つめる目が語りかけてくる。どんなことを考えていたのかと。でも、口に出しては訊いてこず、その代わりため息をかみ殺したような微苦笑を口元に浮かべていた。
「そっか」とだけ言って、維月さんはわたしの肩に腕を回し、やや強引にわたしを抱き寄せた。わたしの顔を胸に押し当てて抱きしめる。
 ほんのわずかの沈黙。
 維月さんの体温が心地いい。抱きしめてくれる腕の力強さもわたしを安心させてくれる。
 何か言わなくちゃと焦っていた気持ちがゆるりと落ち着いてくる。
 維月さんの顔は見えないけれど、なんとなく、どんな顔をしているのか分かる気がした。「美鈴」とわたしの名を呼ぶ声がとても優しかったから。
「無理して言わなくてもいいよ。まあ……気にならないわけでもないけど、美鈴が話したくなったら話してくれたらいい」
「…………」
「それに、そういうのは……俺も分かるよ」
 ふっと短く息をつき、維月さんは語を継いだ。
「俺も美鈴のことはいろいろ考えてて、けどそれを全部言葉にできるかっていうと、なかなかできない。伝えたいこととか話したいこと、頭の中でうまく処理というか、整理ができなくてどう言葉にしていいか分からない。ただなんとなく言いだしにくいというか、考えだけが先走ってるみたいな時もある。話したいことはたくさんあるけど、そういうのすべてを美鈴に話せるかどうかは分からない」
「…………」
「美鈴に何か隠しごとがあるとか、不満があるとかそういうのじゃない。そこは誤解しないでほしい」
 維月さんの腕の中でこくんと小さく頷いた。
「今はまだ話せないけどいずれは話せるだろうってこともあるし、話さないままなんとなく忘れてしまうようなこともある。いつもそんな風に悩んでるわけじゃないけど、ちょっとしたきっかけで気分が沈むことは、俺もあるよ。……それでけっこう美鈴を困らせてる自覚は、まぁ、それなりにある」
 わたしは思わず顔をあげた。維月さんは腕の力をすこしだけ緩めてくれて、わたしと目を合わせてくれる。維月さんは困ったような照れくさそうな、ちょっと複雑な表情をしていた。
 維月さんにもそんな風に戸惑うことがあるなんてと、少しだけ意外だった。でも、「意外」じゃない気もする。
 維月さんは社内の、とくに女子の間では「何考えてるのか分からない人」という評判がある。良くも悪くも考えを面に表わさない人だ。それはプライベートの時もそんなに変わらないように思う。維月さんが感情的になってところって見たことない……気がする。
 もちろんそれは感情表現が乏しいってことじゃない。維月さんは秘めているだけで、いろんな「感情」を持ってる人だって思う。それに、気持ちはちゃんと伝えてくれる。どちらかといえば口数は少ない方かもしれないけど、寡黙というわけでもない。いまみたいに、思っていることをわたしに話してくれるもの。言葉を選んで自分の気持ちを伝えてくれる。
 そんな維月さんに、わたしはいつも甘えてばかり……
「維月さん、あの、……――」
 維月さんから体を離そうとし、けれどそれは阻止されてしまった。
「えっ」
 と、声をあげた時には、維月さんはわたしの手を掴み、もう片方の手は背中に回って、次の瞬間にはわたしの体を横たわらせていた。枕のおかげでヘッドボードに頭を打ちつけずにすんだけど、あんまり突然で、それでいてさり気なく維月さんの下に組み敷かれて、ちょっと面食らってしまった。わたしは目をぱちくりさせて眼前に迫ってる維月さんを見つめる。
「い、維月さん?」
「…………」
 維月さんは何か言いかけ、けれど苦笑を滲ませて、口にしかけた言葉を呑み込んだ。
 鼻先が触れ合うほどに維月さんの顔が近くにある。洗いたての髪の香りとひそめられた吐息がくすぐったい。
「あ、の、ですね、維月さんっ」
「うん?」
 維月さんは何もしかけてこない。キスも。手も、ただわたしの手を掴んでるだけ。触れられてるのに、触れられていないようなもどかしさに、わたしは慌てたような声をあげてしまった。
「維月さんに言えないようなこととかじゃ、ないですから」
「うん」
「わたしも全然、維月さんに不満とかなくて、というかむしろ維月さんが好きすぎてどうしようって、困っちゃうくらいで! つまりそんなこと考えてたっていうか!」
「……うん」
 維月さんは目を細め、やわらかく微笑んだ。
 見つめ合ったまま、けれどまだ距離は縮まらない。維月さんは何か「待ってる」みたい。
 でもきっとそれはわたしも同じで、維月さんもそんなわたしの気持ちに気づいてる。
「だから、その……」
 勢いづいて気持ちのすべてを吐露しそうになったけど、羞恥心がそれを押しとどめた。
「維月さん、……あの……ありがとう、ございます……聞いてくれて」
 維月さんの言う通り、少しでも話すことで、気持ちは落ち着いた。迷いが完全に消えたわけじゃないけど、心にかかってた靄は晴れてきてる。維月さんのおかげだ。
 掴まれていない方の手を維月さんの胸に伸ばした。前開きのパジャマ、上から二つボタンはすでにはずされていて、その隙間から指を忍び込ませるようにして、維月さんの素肌に触れる。
「美鈴」
 維月さんの体がのしかかってくる。
 耳朶に維月さんの唇が触れる。僅かに触れた口唇、そこから漏れる息がくすぐったくて、肩をすぼませた。「美鈴」と、維月さんはまたわたしの名を呼ぶ。まるで、「話はもうお終い」とでも言うように。少し掠れた囁き声は、ひどく甘い。
「今、何考えてる?」
 耳元でささやかれ、思わず肌が粟立って、身をよじらせた。維月さんはわたしを閉じ込めるようにして覆いかぶさってきたけれど、それ以上はしかけてこない。わたしの手は維月さんの胸元にあてたまま。
 維月さんはさっきからずっと「待ってる」。それは分かっているけれど、どうしても羞恥心が勝ってしまう。
 目を伏せて、わたしはぽつりと声を漏らした。――今、何を考えてるか。
「……維月さんの」
「ん?」
「維月さんの肌、気持ちいいなって……」
 とっさに口をついて出た言葉はもちろん本心だったけど、あまりに直截的で、もっと他に言いようはなかったのかって恥ずかしさがさらに増して、顔も体もどんどん熱ってくる。
 そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、維月さんは喉の奥で小さく笑うと、赤くなってるだろうわたしの耳たぶに軽く口づけて、言った。
「俺も同じこと考えてた。気持ちいい。美鈴の素肌」
「……んっ」
 耳たぶを甘噛みされただけなのに体中に電流が走ったみたい。自分でもとまどってしまうくらい甘ったるい声が漏れて、慌てて口の端をきつく締めた。
「美鈴」
 維月さんの吐息が耳にかかってくすぐったい。
「今日は、したくない?」
 いじわるな、維月さんの問い。
 何を? なんて問いかけるまでもない。維月さんの問いは、ただの確認。
「……っ」
 わたしは小さく首を横に振って応えた。けど、それで許してくれるはずもなくて。
「聞こえない。ちゃんと声に出して言って」
 維月さんの声は甘くて優しいけれど、容赦無い。
「……し、たい、です」
「うん?」
「して、ほしい……」
 聞こえるか聞こえないかの小声で告げる。頬が熱くて痛い。
 こういう時の維月さんはいじわるだ。こんな答え方では赦してくれない。「もっと」とわたしを促すように、パジャマの中にするりと手をしのばせてきた。脇腹を指で軽くひっかいて、わたしが身をよじらせるのを愉しんでるみたいだ。
「……して、ほしい。したくないわけ、ない、……っ、んっ」
 くすぐったいのともどかしいので、全身が疼いて落ち着かない。腰が跳ね、口から漏れる声も熱帯びてくる。そんな自分が恥ずかしくて、ぎゅっと目を瞑る。
 維月さんはわたしの耳に口をあてたまま、また訊いてくる。
「どれくらい?」
「え? どれくらい……って」
 維月さんがそんなふうに訊いてくるのは珍しい。ああ、でも……もうなにも考えられない。ただもう維月さんがほしくて。これ以上焦らされたら、おかしくなりそう……っ!
「……いっぱい、して、ほしい……です」
「いっぱい?」
「いっぱい、いっぱい、キスも、……たくさん、もっと、……――」
 なんて伝えたらいいのか。頭が働かない。鼓動が速まり、息があがる。胸がきゅぅっと締めつけられて、もう維月さんのことしか考えられない。
「維月さん」
「ん?」
 堪らなくなって、維月さんの首に両腕を回した。「もう限界です」と小声で告げると、維月さんは強く抱きしめ返してくれて、それからわたしの頭を撫でてくれた。「よく言えたね」って、まるで褒めてくれるみたいに。
 ちゃんと口に出しては言えなかったこと。それはまだ胸の内で少しくすぶっている。けれど、もうしばらくは胸にしまっておきたい。
 それでも隠しきれないことも、もう分かってる。
「維月さんと……これからも、この先もずっと一緒にいたいって、思ってたんです。維月さんの傍にずっといたいって。そのためにわたし、頑張らなくちゃって」
 わたしと維月さんは腕の力を緩め、そしてお互いの顔を見つめた。
 維月さんは眉を下げ、困ったような……それでいて嬉しそうな表情で応えてくれた。
「俺も同じこと考えてた」
 さっきと同じ言葉。だけどさっきより意味深な声音で維月さんは言った。そして維月さんは目を細め、くしゃりと相好を崩す。思わずどきりとしてしまうほど維月さんの笑顔は明るくて、わたしもつられて笑顔になった。
「美鈴を離すつもりはないよ。この先もずっと。――だから」
 ――だから。
 その先を維月さんは言わなかった。でも微かな声を聞いた気がする。吐息すら奪うほどの深い口づけの合間に、未来を約束するかのような一言。はっきりとは聞こえなかった。もしかしたら空耳かもしれない。激しいキスに、わたしはもう蕩けきっていたから。

 これからもわたしはきっといろんなことに悩み、迷い、躓いて、立ち往生してしまうだろう。
 それでももう立ち竦んだまま前へ進めなくなってしまうことは、きっと無い。
 そう思えるようになったのは、維月さんがいるから。維月さんというみちしるべがあるから。
 ――この先もずっと。
 維月さんはそう言ってくれた。

 ――だから。
 だからもしかして、夢見てもいいのかな。
 この先もずっと……維月さんとともに歩んでいける未来を。


* 了 *