Rosy Teatime 3


 うまく切り出せなかったけれど、僅かの間をおいたあと、なんとかためらいを払って語を継いだ。
「未だにわたし……ユエル様の、眷族としての役割を果たせてません。……だから」
 けれど、そこで言葉が途切れてしまった。と、同時に視線を落としてしまった。ユエル様はきっとわたしを見つめたままでいてくれてる。なのに、わたしから目を逸らしてしまった。
 微かな気息が聞こえた。ユエル様は少し息を詰めたみたいだった。けれどため息をついたり鼻で笑ったりもしない。もしかしたら返答に困ってるのかもしれない。
 だから、……――
 その先、何というつもりだったんだろう。わたし自身わからなくて声を呑みこんだ。
 本当の意味で"眷族"になってからもう数ヶ月が経つ。けれど未だ眷族の務めを果たしていない。生殖者であるユエル様の"子"を、未だに宿していない。生殖者の子を産むことが眷族の存在意義だというのに。
 きっとわたしが未熟だから。わたしに何かしら問題があるんだ。
 そう思わずにはいられなくて、けれどその不安を口にすることはできなかった。ユエル様を困らせたくなかったから。
「ミズカ」
 ユエル様の手がわたしの頬を包んだ。そして顔を上向かせられる。ユエル様の深緑色の瞳がわたしをとらえた。哀しげな色はない。とびきり優しいまなざしだった。瞬きをすると、その瞬間に額に口付けがおちた。触れるだけの軽いキス。
 ユエル様は小さく笑った。自嘲的ではない、とても穏やかな微笑みだった。
「どうも私は、ミズカを不安にさせてばかりいるね」
「え、いえ、そんな……」
 ユエル様はわたしの頬を両手で包んだまま微笑みかけてくれる。からかうような色も憂いの色もそこにはない。
 ユエル様の優しい微笑みに、なんだか泣きそうな気分になる。
 美しいだけじゃない、こんな慈愛に満ちたまなざしに胸が揺さぶられないわけがない。切なくなって、喉がキリキリと痛んでくる。油断したら泣き出してしまいそう。
 不安にさせてすまないとユエル様の目は語っているけれど、一方で不安を抱えるわたしを丸ごと慈しんでくれるようなおおらかさがあった。
 ユエル様は肩の力が抜けたような、なんだか嬉しそうな目をしている。やっぱりユエル様はわたしの本音を引き出したかったのかもしれない。
「ミズカを不安にさせるのは私の本意ではないのだが、ミズカの心を揺り動かしているのだと思うと、何やら嬉しいような気になるよ」
 ちょっと意地悪なことを言ってみせるのもユエル様らしい優しさだ。
「不安がるなと言ってもそれは無理だろうね。だからミズカ、不安がること自体を気に病む必要はない。しかし気に病みすぎて自分を責めるのはやめなさい。ミズカの悪癖でもあるね、そういうところは。とはいえ、それもミズカらしさではあるし、無理に矯正しようとは思わないが……」
 ふう、とユエル様は一息つく。それから短く言い添えた。「その日は、必ず来るから」、と。
「…………」
 でも、と反論はしなかった。
 生殖者の眷族は吸血鬼の血を繋ぐための存在だから、子を成さないということはあり得ない。これは、アリアさんやイスラさんから聞かされていたことだった。
 でも、と続けそうになったのは、不安は子を成せないことだけじゃないから。
「ミズカ」
「はい」
「ミズカも気づいていたろうが、私自身、ミズカと同じように不安を抱えていた。ミズカにとって私は良き伴侶だろうかと。その不安はそのままいつか対面するだろう我が子へも繋がっている」
 我が子、というたった一言に今更ながら胸がどきりと鳴った。
 だってユエル様、あんまりさりげなく言うのだもの。ごく当たり前のように。
 当たり前のことだとユエル様は受け入れてる。わたしという"眷族"がいるという、現実を。
 お互いの気持ちを確かめあって結ばれて、わたしとユエル様は「夫婦」になった。夏から秋へと季節が移り、今は落ち着いた暮らしをしてる。幸せで、まるで夢のようだ。だからというのではないけど、やっぱり心のどこかで、「信じられない」って気持ちが残ってて、戸惑いを完全には拭いきれてなかった。
 わたしはわたし自身の恋心を自覚するのも遅かった。
 だから今、ユエル様の伴侶として居るわたし自身の立場もなかなか自覚できないでいる。そのせいでユエル様を困らせてしまっているんだ。
 そんな自分が嫌で、焦ってた。ユエル様に心配をかけたくない。ユエル様の負担になりたくない。そんな焦燥感が常にわたしの心を苛んでた。
 わたしは眷族だから、眷族として務めを果たさなくちゃって。眷族としての務めを果たせて初めてユエル様の伴侶としての自分を認められる気がしてた。
 ユエル様はわたしの逡巡や焦燥感に気づいていただろう。だけど今日まで何も言わず見守ってくれていた。わたしが不安を口にするのを待っててくれたんだろう。
 わたしはいつだって言葉足らずだ。ちゃんと気持ちを伝えられず、ユエル様にもどかしい思いをさせてしまっていた。
「ごめんなさい」そう言いかけたところを、ユエル様に止められた。開きかけた唇に、ユエル様の人差し指がツト触れる。
 ユエル様はいたずらっぽく笑った。
「まあ、こういった時期も楽しいものだね」
「え?」
「何しろ私達はまだ"新婚"だからね。ぎこちなくても仕方ない。このぎこちなさは少々面映ゆいが、新鮮でもある」
 いつものちょっとからかうような声音に、ほんのちょっぴりだけ照れてるような響きがある、……ような気がする。
 ユエル様はにこりとわたしに微笑んでくれ、それから額にかかる前髪を指でなぞるようにして避けたかと思うと、再び額に軽くて甘い口づけを落とした。
「こういう新婚らしい振る舞いも、もっとミズカにしてあげなくてはね?」
「……っ」
「初々しい新妻を心ゆくまで堪能できるのも夫たる者の特権だろう。ミズカは実に良い反応を示してくれる」
 新婚に新妻という言葉だけでも顔から火が出そうなくらい恥しいのに、艶然としたユエル様の美しい微笑を与えられて、わたしはもう一瞬で沸騰し、昏倒しないのがいっそ奇跡的なくらいだ。
 自分でもわかるくらい、顔どころか耳まで熱い。動悸が治まらなくて声も出せないありさまだ。
 だってユエル様がとても幸せそうで。こんなに幸せそうに笑うなんて、ずるいです、ユエル様。ときめいて、胸が苦しくなってくる。
 ユエル様の微笑はいついかなる時でも美しいけれど、わたしに気持ちを伝えてくれる時の微笑の美しさは本当に目も眩むほどだ。見惚れてしまわずにはいられないほどに。
 やや細面だけど鋭角すぎない面貌と、それを縁取るプラチナの髪。雪花石膏の艶肌に澄んだ湖を思わせる深緑の双眸、その瞳を繊細に飾る銀細工のような睫毛、凛と通った鼻梁、薔薇の花弁のような口唇、非の打ちどころのない美貌の持ち主であるユエル様は、自分の美貌の威力をここぞとばかりに発揮してくる。
 穏やかな、そして寛ぎきったやわらかな微笑。それを、わたしだけに見せてくれる。
 自惚れてもいいのかなって、勇気が湧いてくる。わたしもユエル様に応えなくちゃって、自然と体が動いた。
「ユエル様」
 ユエル様の背に腕を回し、ぎゅぅっと抱きついた。
 いろんな思いが膨らんで胸がいっぱいになって、それを伝えるためにいちばん単純な方法。だけど以前のわたしならできなかった行動だ。
「ユエル様」
「うん?」
「ユエル様は、私にとってこの上なく素敵な夫です。良い夫です、とっても!」
 わたしはようやくユエル様の問いに答えた。
 ユエル様は「それは良かった」と安堵の声をもらし、わたしの体を優しく抱き返してくれた。
 飲み切れなかったマロンティーはすっかり冷めてしまったけれど、わたしの体と心はほわほわと温かくなっていった。ユエル様の腕の中はとっても甘い香りがする。それは紅茶の残り香とは違う、わたしを蕩けさせるユエル様の"色香"の匂いだ。
「ミズカも」
 ユエル様がわたしの体を離し、小首を傾げて顔を覗き込んできた。銀の髪がさらりと肩から流れ落ちる。ユエル様の仕草、ひとつひとつがわたしをときめかせる。頬の熱りは治まりそうにない。
「この上なく愛らしい、良き妻だよ」
 だから私達は良い夫婦といえるだろうね、とユエル様は相好を崩した。

 そしてユエル様はこう言い添えることも忘れなかった。
「良き夫として、今宵は存分にミズカに尽くそう。期待しているといい」
 頬をさらに赤く染めて絶句するわたしに、ユエル様はさらに追い打ちをかけてくる。
「夜を待たずともよいのだが、どうしようか、ミズカ?」
「ユエル様……っ」
 あけすけな物言いにあてられて、卒倒しそう。
 まだ明るいうちから何を言ってるんですかって抗議の声すらでなくて、あたふたするばかりだ。
 ユエル様は愉快げに笑っている。その艶めいた微笑に容赦はなくて。
 夜まで待ってください!
 そう応えるのが精いっぱいのわたしに、ユエル様はとどめの一撃をくれた。
 ――夜を待ちかねるような、甘くて深いキスを。

* 了 *